手塚治虫の人物像

手塚治虫といえば、日本漫画界の重鎮で、日本アニメの面白さをこの世に知らしめた人物でもあります。当時の漫画家の地位は非常に低いもので、漫画は低俗で下品なるものとして、世の中の父兄や教育関係者からも排斥運動が起こったほどです。

手塚治虫氏は、医学大学を卒業し、医師免許や医学博士の資格を持つ異色の漫画家で、ストーリー漫画の第一人者として、その草分け的な存在でした。初期の手塚治虫マンガは、子供向けの作品が非常に多く、主人公は善そして定番の悪役を排した作品が、王道漫画として全国の子供たちに人気を博していました。アニメの分野にもいち早く乗り出し、手塚治虫の作り出す、動く漫画であったテレビアニメは、テレビの普及にも大きく役立ったのではないでしょうか。

手塚治虫の人間性を知る持ち味は、漫画にヒューマンドラマの要素を入れてきたことにあります。それは、従来の漫画にはあまり見られなかった、宗教・歴史・文化・医術の世界など、人間の葛藤や命の神秘にも折を見て触れ、漫画をさらに高いレベルのものへと高めた功績を持ちます。

日本漫画の原点・トキワ荘

漫画に詳しい人なら、日本漫画の原点がこのトキワ荘にあると、誰しもが異論を唱えるものではありません。トキワ荘の歴代の入居者は、漫画界の重鎮・手塚治虫を始め、藤子・F・不二雄、藤子不二雄Ⓐ・石ノ森章太郎・赤塚不二夫・寺田ヒロオ・鈴木伸一・森安なおや・よこたとくお・水野英子・山内ジョージ・向さすけなど、漫画・アニメ界の大御所たちが住み着き、トキワ荘グループとしても知られていました。

現在は、当時の建物こそありませんが、地域の取り組みによって、漫画家を目指す若者に、格安の賃料でシェアハウスを貸し出すシステムのトキワ荘プロジェクトが行われています。また、トキワ荘の跡地には、トキワ荘跡地モニュメントが設けられており、トキワ荘に住んだ漫画家全11人分の記念碑を設置しています。

雑司が谷と手塚治虫のつながり

雑司が谷と手塚治虫のつながりは、トキワ荘からの退去後、この雑司が谷の街に移り住んだことから始まりました。手塚治虫といえば、トキワ荘のイメージが強いものですが、実際にトキワ荘に住んでいたのは1年余りで、その後トキワ荘の部屋は、当時の藤子不二雄両名が使うことになりました。1954年に移り住んだ手塚治虫氏は、鬼子母神堂にほど近いというアパートで、多くの作品を手掛けてきました。

トキワ荘から引越したとはいえ、アシスタントにトキワ荘の仲間たちを選ぶなど、仲間意識はかなり強かったようです。当時、並木ハウスの手塚氏の部屋は、六畳ほどの部屋で現在も建物を含めてそのまま残されています。しかし、立ち入りは禁じられており、外からだけしかそのたたずまいを見ることはできません。雑司が谷は、現在でも比較的静かな街で、地元の個人商店街や時代を思わせる神社やお寺の多い場所です。